髙垣千恵の経歴
幼くして命を落とした弟への思いから 子どもに関わる仕事を目指す。
所帯道具は箸とみかん箱のテーブルだけ―。
まるで昭和の歌に出てくるような家庭に私は生まれました。
南京虫に体中をかまれたり、食べるものがなく母乳が出ない母が重湯をミルク代わりに飲ませたりなど、今の時代からは想像もつかないような貧乏な暮らしだったそうです。父は自ら鉄工所を立ち上げて頑張って働いてくれましたが、貧しい生活は長く続きました。
それでも、両親から精いっぱいの愛情をかけて育ててもらったため、ぜいたくな生活に憧れることもなく、今の年まで人生を歩むことができたのだと思います。
小学校6年生になる前の春休みのことでした。いつものように、働く両親のいない家で妹と弟と3人で留守番をしていました。
すると急に外が騒がしくなり、初めて弟の姿が見えないことに気付きました。胸騒ぎを覚えたその時、近所の人が家に走り込んできて、「謙ちゃんが!」と叫びました。
慌てて外に飛び出すと、いなくなっていた弟が血まみれになって隣の玄関先に横たわっていたのです。
救急車よりも速く、加害者の若い運転手が近くの病院に弟を担ぎ込みました。その運転手が待合室のソファに座って青ざめて震えていたことを、今でもはっきりと覚えています。
それが人の死に初めて触れた瞬間でした。
その後、私は進学校に進み、将来の進路を決断する時を迎えました。幼くして未来を奪われた弟のためにも、「子どもたちの役に立つ仕事をしたい」と思うようになり、保母さんや学校の先生などの職業が頭に浮かびました。
そして最終的に「看護師なら子どもたちのすべてに関わっていける」と考え、京都の日本赤十字の学校に進学しました。
寮に住みながら看護師の道を歩み始めた学生生活。当時は制度化されていなかった訪問看護についても学び、「病院の中にいるだけでは患者さんを救うことは難しいのでは」と在宅支援の大切さを知りました。
卒業後は京都第二赤十字病院の内科病棟に5年間勤務。治療でよくなって退院しても、また同じ病気で戻ってくる患者さんをみて、在宅支援の道に進みたいとさらに強く思うようになりました。
重度の障害児の育児に疲れ果てた私に 希望を与えてくれた人たち。
日航機墜落事故の起きた昭和60年の10月に結婚。共働きでの新婚生活がスタートしましたが、出産のために退職。
実家のある下関で一番大きな総合病院で里帰り出産をし、出産後は訪問看護のある病院でまた働きたいと思っていました。
しかし、待望の長男、翔平は仮死状態で生まれました。生後2日目には大きなけいれん発作を起こし、「重度の障害児になる」と医師から宣告。
京都に戻ってから、専門の医師の診察を受けたり、少しでも障害を軽くするための訓練を受けたりと、とにかく目まぐるしく毎日が過ぎていきました。もちろん仕事への復帰の道は閉ざされました。
乳首に吸い付くことができずに、おなかが空いて火がついたように泣き続ける生後1カ月のわが子。一緒に死のうと何度思ったか分からないほど、私は心も体もくたくたに疲れていました。
そんな時です。もう名前も顔も覚えていませんが、訓練を学ぶために母子入院した病院で会った、ある看護師さんの言葉が私の人生で一度目のターニングポイントになりました。
「この子は、これから先、歩くことも、自分で食べることも、話すこともできないかもしれない。でも、この子にたった一つだけできることがある。それは、お母さんの笑顔を覚えて、笑顔のすてきな人になることですよ」
その言葉を聞いて、私は「二度と翔平の前では泣かない。いつも笑っていよう」と決心できたのです。
翔平は最重度の障害児であったため、母子通園施設で訓練を受けてもごはんを食べることがなかなかできませんでした。
訓練をするうちに食べることが上手になった子は、先生が親に代わって食事を介助してくれるようになります(そのわずかな間だけ、母親たちは自分だけの時間を持つことができます)。
でも、翔平だけができない…。わが子がたった一人の落ちこぼれのように感じ、母子通園施設へ行くことがとても大きなストレスに感じました。
そんな時に、自宅の近くにある通園施設の園長先生と面談をする機会がありました。
「今までよく頑張ってきましたね。今度は私たちが頑張る番です。私たちはプロです。どんなに障害が重くても、大丈夫です。私たちに任せてください」
と言ってくださいました。その言葉にどんなに救われたことか。この園長先生の言葉が人生二番目のターニングポイントとなりました。
年中さんからその園に通うことになり、先生方の優しさに助けられました。重度の障害児を育てていくことに疲れ果てていた私に、希望を与えてくれたと言っても過言ではありませんでした。
偶然の大きな出会いがきっかけで仕事復帰の道を切り開く。
そして、翔平が年長さんになった時に大きな出会いが訪れたのです。初めて行ったマッサージの治療院で、京都の視覚障害者の礎を築いた方と知り合う機会がありました。
そのような立派な経歴の方とも知らず、「看護師の免許を持っているけれど、子供が重度の障害児でとても働くことができない。でもいつかは仕事に戻りたい」と世間話をさせてもらいました。
それから1カ月後、突然電話があり、その方が理事長を務める視覚障害者の施設で看護師として働いてくれないかというお誘いを受けました。もちろん仕事に復帰できる状態ではなく、丁寧にお断わりさせていただきました。
でも、その後もラブコールは続き、「あんたのように、本当に障害者の気持ちが分かってくれる人に来てほしい。みんなで働けるよう助けていくから!」と説得され、ついに心が動き、見切り発車でしたが仕事復帰を実現しました。
現場ではその方の言葉どおり、施設長をはじめスタッフみんなが助けてくれました。
でも、一番頑張ったのは翔平自身かもしれません。当時、京都では障害児は学童保育所に入所できませんでした。
何度も何度も何度もお願いし、最終的には京都市が介護者をつけることを条件に、学童保育所への入所を認めました(介護者の給料も京都市が支払ってくれました)。
しかし、自分の道を歩み出し、仕事と家事と翔平の介護に全力投球していた私と、当時の夫との間の心の溝はどんどん深まっていきました。
温かい励ましと多くのサポートを受け、障害児を抱える母子家庭と仕事を両立。
そんな矢先に、2歳の二女の清香(さやか)が、自宅で夜寝ている時に突然亡くなりました。原因は不明でした。
突然の不幸に生きる気力を失い、仏壇の前で毎日毎日清香の写真を見ながら泣いていました。残された翔平と4歳の長女の友希のためにも何とか立ち直らなければと思いながらもどうすることもできず、月日だけが過ぎていきました。
今でも清香の写真は整理できずに、段ボールにしまったままです。
そんなぼろぼろの私を救ってくれたのは、2人の子どもたちと、私が働く障害者施設の利用者さんたちでした。私を必要としてくれるこの人たちのためにもこのままではいけないと思い、必死に仕事をする中で、徐々に自分を取り戻していくことができました。
やっと平穏な生活を取り戻しつつあったと思ったら、今度は私を誰よりも愛してくれた母が末期の肝臓がんであることが発覚。たった65歳でした。
親はいつまでも長生きして自分を見守ってくれると思い込んでいた私は、またも目の前が真っ暗になりました。何とか時間を見つけては、友希の手を引き、翔平の車椅子を押して、遠い下関まで看病のために新幹線で通いました。
それでもがんの進行は早く、告知からわずか半年で最期のお別れをすることになったのです。
当時、重度の障害児の入所施設は少なく、お葬式に備えて翔平はお泊まりの練習を頑張りましたが、結局はベッドがいっぱいで下関に一緒に連れて帰るしかありませんでした。
翔平の介護をしながら葬式を取り仕切り、その後も一人残された父のために精いっぱいのことをしようと努力しました。
すべてが片付いた後、広がった溝を埋めることができずに夫とは離婚に踏み切りました。
母子家庭の上、重度の障害児を育てていくのは並大抵なことではなく、仕事を辞めざるを得ないと本気で悩んだ時もありました。しかし、地域の福祉事務所や社会福祉協議会が相談に乗ってくれ、責任者の方が掛けてくれた言葉が私の人生三番目のターニングポイントになりました。
「重度の障害児を抱えて仕事を続けるのは本当に大変だけれど、あなたは先駆者にならないといけない。私たちが協力するから」
弱気になっていた私を励ましてくれたその方の応援と周囲の温かいサポートのおかげで、何とか仕事を辞めずに頑張り続けられました。
その後ケアマネージャーの資格も取得。介護保険が始まる1年前のことでした。
私は障害を持つ人たちのケアマネージャーになりたかったのですが、当時はそのような制度がなかったため、まずは資格を持って実績を積むことで夢に近づくことを決めました。
そして15年後。その時の思いがやっとかない、平成26年1月、目標であった相談支援専門員になることができたのです。
過去の私を救った3つの言葉を障害児を育てる親御さんたちに贈ります。
今の夫との出会いもあって和歌山に移り住み、有田市の特別養護老人ホーム「愛宕苑」の立ち上げに関わりました。多くのことを勉強させていただきましたが、体調を崩してしまい、「愛宕苑」をやむなく退職。
そして体調が落ち着いてから、自分の残り少ない未来をどう生きていけばいいか、自分が本当にやりたいことは何か、繰り返し繰り返し考え、悩みました。
そして出た答えは「お年寄りや障害を持った人たちのために、自分が本当にやりたいと思う介護をしたい」。
でも、事業所を立ち上げる力が自分にあるのか、ましてや事業所を維持していくことができるのか…。
そんな堂々巡りの思いの中で、電気屋一筋に生きてきた夫が、「僕は介護のことは分からないけれど、本当にやりたいなら支えるから挑戦してみなよ」と背中を押してくれたのです。
それから5年。亀のように遅い歩みではありましたが、スタッフや利用者さんに支えられ、確実に一歩一歩前に進んできました。
「この子は、これから先、歩くことも、自分で食べることも、話すこともできないかもしれない。でも、この子にたった一つだけできることがある。それは、お母さんの笑顔を覚えて、笑顔のすてきな人になることですよ」
「今までよく頑張ってきましたね。今度は私たちが頑張る番です。私たちはプロです。どんなに障害が重くても、大丈夫です。私たちに任せてください」
「重度の障害児を抱えて仕事を続けるのは本当に大変だけれど、あなたは先駆者にならないといけない。私たちが協力するから」
悩み苦しんだ過去の私を救ってくれた3つの言葉。今は、障害児を育てて頑張っているすべての親御さんたちにかけている言葉です。
翔平は今、和歌山病院の最重度の障害者の部屋に入院しています。入院当初は吸引器や注入の器具などを持って、一緒に温泉にお泊まりもしていました。でも今はたくさんのチューブにつながれ、もう一歩も病院から出ることができません。それでも翔平の笑顔は最高で、一生懸命頑張って生きています。
過去の在宅サービスが充実していれば、もう少し長く、もっと一緒にいられたのにと、今でもとても悔やまれます。その思いをいつも胸に持ち、障害を持つ子どもたちが愛する家族と自宅で暮らせるよう、自分の残りの人生すべてをかけて、障害児者とその家族の幸せのために頑張っていきたいと思います。